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  • 2016.09.14 Wednesday
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山頭火を歩く 12 大浦天主堂

 大浦天主堂
大浦天主堂 信徒発見のマリア像

幼い頃、母の突然の死を目の前にした山頭火。
優しい母の面影を、観音様に見ていたのかもしれない。

1865年(慶応元年)3月17日、浦上村の潜伏キリシタン達が、250年間の潜伏期間の後、このマリア像のまえで信仰を告白した。
67年後、同じ場所に立った山頭火さんは、幼子を抱くマリア像になにをみたのだろう。


  冬雨の石階をのぼるサンタマリヤ  (大浦天主堂)

  ならんであるくに石だヽみすべるほどの雨  (途上)

                         二月四日   行乞記



大浦天主堂  大浦天主堂
天主堂内のステンドグラス          聖マリア像

大浦天主堂
 大浦天主堂前広場の石畳



jar©2009 禁無断転載



山頭火を歩く 11 崇福寺

 崇福寺
崇福寺大釜


二月四日 曇 雨 長崎見物 今夜も十返花居で

今日は唐寺を巡拝して、そしてまた天主堂に礼拝しました、あすは山へ海へ、等々
私には過ぎたもてなしであります、ブルプロを越えた生活とでもいひませうか。

冬曇の大釜の罅 <ヒビ>  (崇福寺)               行乞記



この大釜は、飢餓救済のために1682年(天保二年) 崇福寺第二代住持唐僧千凱が、鍛冶屋町の鋳物師安山弥兵衛に作らせたもの。粥の施しを受けた者は多い日には、3000〜5000人におよんだと云う。


崇福寺

崇福寺


思案橋といふのはおもしろい、実は電車の札で見たのだが、例の丸山に近い場所にあるさうだ、思切橋といふのもあつたが道路改修で埋没したさうだ。  行乞記


崇福寺の坂を下れば思案橋、丸山。すぐ隣には銅座という飲食店街が。
どうも、十返花氏たちは、世俗的な誘惑に弱い山頭火さんを丸山、銅座あたりから意識的に遠避けていたのではないだろうか。「丸山に居続けられたら大変」と。
古来文人墨客は遊女をあいてに芸術論を肴に、酒を嗜むのが大好きなのだから。
酔った勢いで襖に書や歌なぞを大書して残して行くのもお約束。

丸山の花月あたりに、山頭火さんの俳句が大書きされた襖が残っていたら・・・・


jarラボ内の検索<search this site.>で花月といれると花月の写真がでます。
                 銅座も
jar©2009 禁無断転載




山頭火を歩く 10 ちょっと寄り道「亀山社中」

 龍馬
坂本龍馬

長崎市寺町の禅林寺脇の細い坂段を登って行くと、坂本龍馬・海援隊の亀山社中跡がある。慶応二年(1866)設立。動乱の幕末を、若き志士たちの夢を育み駆け抜けた。

海援隊
海援隊 左から三人目が坂本龍馬

亀山社中
亀山社中の家

亀山社中  禅林寺
亀山社中跡碑                禅林寺脇の「龍馬通り」

現在はこの家の内部を見学することは出来ないが、管理をしている長崎市によれば、本年度中には、見学可能になるということだ。近くに「亀山社中ば活かす会」による、『亀山社中資料展示場』があり、さまざまな海援隊ゆかりの品々を見ることが出来る。(土・日・祝日の午前十時から十二時と午後一時から三時まで)

資料
亀山社中資料展示場

案内 案内 案内
海援隊士による案内板


jar©2009 禁無断転載


山頭火を歩く 9 寺町界隈

寺町

   寺から寺へ蔦かづら (寺町)

山頭火は俳句の友人達に案内されて、寺町を巡る。
長崎では十返花氏のところに泊り、あるいは、Gさんの家に泊り、宿泊の心配も、食事の心配も、行乞の心配もなく、長崎を俳人として楽しむことができた。
特に、Gさんの家では
 「Gさんの父君が内職的に酒を売ってをり、
  酒好きの私が酒樽の傍に寝かされたとは、
  なんといふ皮肉な因縁だったらう!」   (行乞記)
ということだったようだ。

寺町
浄安寺

寺町
興福寺

寺町 寺町
興福寺               興福寺


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山頭火を歩く 8 聖福寺

 聖福寺

聖福寺 聖福寺

聖福寺

聖福寺 聖福寺

聖福寺

二月四日 曇 雨 長崎見物 今夜も十返花居で。

夜は句会、敦之、朝雄二句来会、ほんたうに親しみのある句会だった、散会は十二時近くなり、それからまだ話したり書いたりして、ぐっすり眠った、よい一日よい夜だった。

長崎よいとこ、まことによいところであります、ことにおなじ道をゆくもののありがたさ、あたたかい友に案内されて、長崎のよいところばかりを味はゝせていただいています
                               行乞記




山頭火を歩く 7 福済寺の布袋様

 布袋

 すっかり剥げて布袋は笑ひつゞけてゐる (福済寺)

「昭和七年二月四日
 今日は唐寺を巡拝して、そしてまた天主堂に礼拝しました」  (行乞記)

山頭火さんが見た福済寺の布袋様はいまはいらっしゃらない。
かつての国宝の七堂伽藍が立ち並んだ寺も、いまはない。
かつての面影を残す物は、ここには何もない。
あるのは写真と、ソテツの木。

福済寺 福済寺
かつての寺全景               御本尊の三像は楊貴妃の念持仏

   福済寺
昭和20年8月9日11時02分長崎に投下されたプルトニウム原爆により、
福済寺は全て焼き払われてしまった。このソテツと石仏が残った。

この、巨大な観音像は、福済寺のご住職の、<長崎の港が「鶴の港」と呼ばれているので、「亀」を配置し、亀に乗った「観音様」がやさしく港を、長崎を見守る>という思いを表しているそうだ。ご住職は、南の島の戦場の跡をたずね、供養をなさってきた。そのこともあり、寺の収蔵庫には、様々な旧日本軍の遺物がおさめられている。

福済寺
魚雷
福済寺 福済寺
遺骨収集・供養の模様を伝える写真・遺物の展示


1864年(元治元年)幕府の軍艦奉行並だった勝海舟は、外国艦隊の下関攻撃を阻止するために長崎に出張。2月23日から4月4日まで、同行の坂本龍馬と、この福済寺に宿泊した。
  勝海舟     福済寺
  勝海舟                羅漢さんの石像


いま、福済寺は「フーコーの振り子」の寺として有名に。
山頭火さん、如何?
ふーこー

亀



jar©2009 禁無断転載


山頭火を歩く 6 大村宿

 大村駅
大村駅

大村駅
大村駅 1918大正七年改築され現在まで

昇天宮
昇天宮 大村藩総鎮守 大村の「おし寿司」発祥の地
御神体は、和銅五年(七一二年奈良時代初期)、行基菩薩が郡岳の聖域で謹製奉納したものと昇天宮由緒に記されている



「二月二日 雨 曇 晴、四里歩いて、大村町、山口屋(三十・中)
 午後は大村町を辛抱強く行乞した。
 軍人のために、在郷人のために、酒屋料理屋も多い。
 昨日も今日も飛行機の爆音に閉口する。
 すまないけれど、早く逃げ出さなければならない。
 この宿はよい、しずかで、しんせつで、
 湯屋へいったがよい湯だった、今日の疲労を洗ひ流す。」 行乞記


山頭火さんが大村を行乞していた昭和七年1932頃は、
大日本帝国海軍大村海軍航空隊があった。(大正十一年1922に開設)

昭和十六年には、東洋一の規模をほこる、第21海軍航空廠が設立され、
約五万人の人が、紫電改などの航空機を作っていた。
昭和十九年十月二十五日、B29数十機による大空襲。
昭和二十年には、海軍特別攻撃隊の出撃基地にもなった。

しでんかい
紫電改

大村おし寿司
大村寿司



jar©2009 禁無断転載






山頭火を歩く 5 松原宿へ

 江串浦
江串浦

「どうも気分がすぐれない、右足の工合もよろしくない、濡れて歩く、
 処々行乞する、」
「何だか物哀しくなる、酒も魅力をうしなったのか!
あたたかいことだ、まるで春のやうだ、そぞろに一句あった。」 行乞記二月二日

    あたたかくて旅のあはれが身にしみすぎる


江串浦
漁師さんの今日の酒の肴 もちろん 刺身も


江串浦 江串浦 
水洗い場         江戸時代の役所跡



紅梅
江串浦

     梅が香もおもひでのさびしさに

「歩いているうちに、ふと、梅の香が鼻をうつた、
 そしてそれがまた私をさびしい追憶に誘ふた。
 かういう月並みの一句を書き添へなければならない。」  行乞記二月二日




    松原宿
    松原宿 長崎街道

山頭火は行乞しながら松原宿へ
松原刃物が有名。鎌や鍬などの鍛冶屋さんがおおい。


伊東家
伊東家屋敷

建久元年(1190)、富士の巻き狩りのときの曽我兄弟の仇討ちで有名な、工藤祐経が源頼朝より全国三十三か所に領地を賜った。その一つが松原村の百町歩で、現地の管理者として下向したのが伊東家。以後、代々、八幡神社の別当を務めている。
また、戦国時代、中岳の合戦で領主大村純伊が有馬家に敗れた時、松原浦より脱出する際に手助けするなど、古くから歴史のある家。(松原宿活性化協議会)

八幡神社
松原八幡神社


jar©2009 禁無断転載





山頭火を歩く 4 千綿宿を旅立つ 

 ちわた
長崎街道沿いの酒屋

山頭火は千綿宿を出立、大村宿をめざす。

「大村湾はうつくしい、海に沿うていちにち日歩いたが、どこもうつくしかった、
 海もわるくなあと思ふ、しかし、私としては山を好いている
 (海は飽いてくるが山は飽かない)。」  行乞記

太陽 からす

ざっそう 大村湾

堀田さん
山頭火の泊まった江川屋のすぐ近くで
生まれ育った堀田さん。
山頭火の泊まった約ひと月後に生まれた。


jar©2009 禁無断転載




山頭火を歩く 3 千綿宿「江川屋」

 千綿宿
千綿宿 山頭火の泊まった江川屋もこの家並のなかにあった

「昭和七年二月一日
 雨、曇り、行程四里 千綿<チワタ> 江川屋(30 中)
       ・
  海を見晴らしの静かな宿だ
       ・
 新しい鰯を買って来て、料理して貰って飲んだ、うまかった、うますぎだった。
 前後不覚
 過現未を越えて寝た。」   (行乞記)


江川屋 (30 中 )は<宿賃30銭 旅館のランク中くらい>の意

千綿宿
30年くらい前までここに、木造二階建ての江川屋旅館があった
目の前は、千綿川が大村湾の海に注いでいる河口。

千綿宿 千綿宿 千綿宿
千綿西宿          長崎街道        千綿宿の共同水洗い場                            いまもちゃんと使える


千綿宿
街道沿いには古い家並みが
山頭火はこの道を行乞して歩いた。


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